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あちこち天神さん 大阪天満宮

大阪天満宮
全国各地に創建された天満宮は、当初は「学問の神様」というより、菅原道真の怨霊を鎮めるための神社として各地に建立されました。延喜元年(901)に道真が、藤原時平により京の都から左遷され、延喜3(903)に太宰府で没したあと、都では疫病や天変地異(干害や清涼殿落雷など)、皇族や公家が相次いで病死するなどしたため、これらを道真の祟りと恐れ、その怨霊を鎮めるためだったと言われています。その天満宮のひとつ大阪天満宮は、「大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放った」という不思議な出来事を受けて、村上天皇の勅命により、平安時代の中期(天歴3/949)に創始されました。

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大将軍社
大阪天満宮が創建される以前から、ここに祀られていた社です。飛鳥時代の都・難波長柄豊崎宮(前期難波宮)の「西北の鎮護神」が大将軍社と言われています。その頃の大阪は、半島のように突き出た上町台地をはさんで、西側には瀬戸内海に通じる海が広がり、東側は河内湖という地形。そして、都の西北にあたる現在の大阪天満宮のあたる地域は、松林の広がる砂州(天満砂州)でありました。大将軍社は、現在でも大阪天満宮の境内に摂社として祀られています。

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梅の花
天神さんに梅はつきもの。菅原道真が京の都を追われた際に詠んだという有名な歌「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘るな」(拾遺和歌集)からも分かるように、道真はこよなく「梅」を愛したという。「飛梅伝説」など梅にまつわる話も数多くあります。

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道真は、承和12(845)の丑年生まれ。また「牛」にまつわる逸話や伝説なども多く知られており、天神さんと牛は深い関係にあります。天神信仰では牛は神の使いということもあり、大阪天満宮にもたくさんの「牛」が奉納されています。

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十二支方位盤
大阪天満宮の表門(大門)の天井には、十二支が描かれた方位盤が設けられています。よく見ると「酉」の絵柄は「鶏」ではなく「鳳凰」。それは左遷された道真にとって「鶏」が苦難の象徴としてとらえられているからです。太宰府に行く途上に道明寺に寄り、そこで詠んだ歌「鳴けばこそ 別れをいそげ 鶏の音の 聞こえぬ里の 暁もがな」 鶏の鳴き声に無念の出立を急かされたかのような歌であるため、天神さんでは鶏を用いず、大阪天満宮でも鶏卵をお供え物にすることはないそうです。


大阪天満宮周辺・歴史MAP


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難波宮跡
前期難波宮である難波長柄豊崎宮(652686)と後期難波宮(726年造営)の遺跡跡。ちょうど大阪城の南側に位置し、難波宮跡公園として大極殿の土台部分などが復元されています。この都から「厄除」の方角になる「西北」にあたるのが大将軍社のあったところであり、のちの大阪天満宮になったわけです。

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川崎東照宮跡
大阪にもあった徳川家康を祀った東照宮(東照大権現御宮)。造幣局の西隣にある滝川小学校の正門横に石碑と説明板が設けられています。大坂夏の陣(1615)の後、大坂城代となった松平忠明によって建立されたもので、豊臣家の影響を払拭するためとも言われています。明治6(1873)に廃社されたものの、神輿蔵や石灯籠は大阪天満宮に移されました。

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天満興正寺跡
大阪天満宮の南東にある滝川公園。ここには、天満興正寺と天満組惣会所があった場所です。天満興正寺は真宗興正寺として天正13(1585)に広大な堂舎を営んでいました。そして江戸時代、大坂三郷のひとつ天満組の惣会所もこの場所にあり、跡碑も同じ公園内にあります。

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天満青物市場跡
大阪天満宮の南側、大川沿いにある南天満公園のなかに、天満青物市場跡があります。大坂御坊の門前に開かれた市場が青物市場の始まりとされ、江戸時代には、堂島の米市場・雑喉場の魚市場とならんで大坂三大市場のひとつでした。この天満青物市場は、中央卸売市場に移る昭和初期まで続いていたというから長い歴史のあった市場です。

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明治時代の天神橋
天神橋は、東にある天満橋と西にある難波橋とで、古くから浪華三大橋と称されていました。天神橋が最初に架けられたのは豊臣秀吉の時代で、大阪天満宮があったことから天神橋と名付けられ、参道とも言える橋でした。明治18(1885)の大洪水で流され、それまでの木橋から鉄のトラス橋へと架け替えられました。当時の橋名飾板は、天神橋北詰と大阪天満宮・星合の池に置かれています。


652年 難波長柄豊崎宮造営
794年 平安京遷都
845903年 菅原道真
930年 清涼殿落雷事件
949年 大阪天満宮創始