hitorigoto

200612

藤田さん
昨日、IT関連社長・藤田さんの闘病生活のドキュメントをテレビで放映していた。
末期癌で死を待つだけの状態になっていた。彼の両親が彼の面倒をみるシーンがたまらなかった。また、私よりずっと若い方の苦悩はたまらなかった。
それを、たまたま見て夜更かししてしまった。

インタビューをうける藤田さんの言葉は淡々として、おおよそ死を目前にしている人の言葉とは思えないくらい、感情のバランスがよかった。力みもなく、悲しむでもなく、内に秘めた闘志には脱帽。さすがに、若くして有名な経営者になるだけの人に思えた。もうこの世におられないのが残念な存在である。それに対して、私と言えば48歳にもなるのに、まだ、母に面倒みてもらっている。この差はいったい何なのだ。あまえ以外の何ものでもないだろう。立派な彼との差はわからない。今現時点で自分自身の答えが出せないので、もう少し考えてみたい。
テレビ放映が同じ日にあったので心にだぶって見えない目に映ったのだが、彼の心は、
1224日に引退した名馬ディープインパクトみたいに強く印象に残った。藤田さんの残された生命の最後のニ百数十日は、ディープのラストスパートのように異次元を快走し、天空を自由自在に駆け巡ぐり、この世のものとは思えない他をよせつけない強さがあった。ゴールを横切ったディープに対する観客の感動のなみだのように、彼の死に対して、私は、すがすがしささえ感じた。はじめて、彼の生き様を知った私だったが、不思議に親しみを感じた。
(2006.12.27)


授業参観
先日、友達の娘さんの授業参観に行ってきた。
え? そうなんです、友達の娘さんの。理由はともかく行ってきた。
最初、何の授業かわからなく、
10分ほどウトウト気持ちよくなりかけた。
先生が切り出す。「小学4年生から5年生になってできるようになったことを書きなさい」
なんだだるいなあ。ところが
15分過ぎたくらいから、
「どうしてできるようになったのですか」
「心が成長したから」
「そう、心が成長したから」
何か誘導尋問しているみたいに入ってきた。
そして先生が、心の種類を
8種類に分けた。肉体の成長とともに、その8種類の心が成長したから、できないことができるようになったと説明した。やっとわかってきた、道徳の授業だ。

本題の8種類の心
1 ありがとうの心
2 約束を守る心
3 努力する心
4 思いやりの心
5 許す心
6 反省する心
7 親を思う心
8 友達を思う心

そして、先生が分けた8種類の心の中で、皆さんが一番大切にしている心を父兄と生徒に尋ね、その数字をまとめた。父兄で一番多かったのは4番目の「思いやりの心」であった。そして、生徒になぜそうなったのか理由を尋ねた。ざわざわしていた教室に沈黙が走った。生徒からの答えがないので12分して先生が切り出した。
「もうすぐ授業の終わりのチャイムが鳴ります。このままでは答えがでないままで授業が終わり、皆さんが悶々とした心のままになります。そこで先生が変わりに答えましょう。なぜたくさんのお父さんやお母さんが、思いやりの心を大切にすると言うことを選んだか、
1から8までの心はどれをとっても大切で、どれが一番大切ということは言えません。しかし、78の「親を思う心」と「友達を思う心」は、大きな意味で4の「思いやりの心」を大切にすると言う心と同じで、478を含むと言うことになります。したがって、4の「思いやりの心」を大切にすると言うことに手がたくさんあがったと思います」と締めくくった。
「これから毎日この
8つの心を大切にするため、教室に毎日一つ一つの心をはりだしますのでみんなで守っていくようにしましょう」
そして、タイミングよくチャイムが鳴った。私は、なるほどとうなずいた。


*追伸
後で聞いた話だが、このクラスでも45人の生徒が授業中に席を離れ騒ぐことがあるらしい。いわゆる今はやりの学級崩壊である。そのため、授業参観にこのような内容の授業を行ったらしい。そして授業中、先生は、父兄が来られていない生徒をたえず気づかっていた。
(2006.12.24)


アメリカンドリーム
最近、日本のプロ野球選手が、大リーグへ移籍し成功をおさめ、アメリカンドリームを実現している。偉い。
昨日、松坂選手と桑田選手が遺跡で合意し記者会見をしているところをテレビで見た。これから始まるので結論はまだわからないが、二人の境遇は対照的であったような気がした。松坂選手は希望に満ちあふれ、桑田選手は勝負の世界の現実をしっかり考え、それぞれ発言していた。松坂選手の中に20年前の桑田選手を見た。二人とも大投手であり高校球児の大スターだが、20年と言う時が二人の今の境遇の違いをもたらした。結果は来年になるが、二人とも成功してほしい。
堺屋太一さんの日経新聞の連載小説の中に、敵を知り己を増し時をつかむと言うくだりがあったがそのことを実現してほしい。ピッチングではまっすぐが基本である。そして、速い球は打たれるが、魂が入り、威力を増し、速く感じる球は打たれない。どちらの球が速く感じるか、時をつかんだものの勝ちである。

(2006.12.20)


あまえ
私は、うどん屋をするようになってよく言われることがある。
いや、うどんをする以前からでも言われていたと思う。

みっチャンは、とくやなあ。岡さんは、とくやなあ。恵まれてるからなあ。目が不自由になって、知り合いや友達、身内に気の毒がられたことがほとんどない。それどころかいやなもの見んでいいからええなあで始まり、恵まれてるからええなあの二言で終わりである。確かに私が通った幼稚園は、愛の恵み幼稚園である。それで恵まれているのか・・・。
そして、いつも考えるのである。

恵まれているとはどう言うことかと。
恵まれていないとはどういうことかと。

結局のところよくわからない。ただ、いつのころからか定かではないが、私は毎日お題目のように、天の恵みに心から感謝しますとくりかえしくりかえしつぶやいている。したがって、天が必要なものを恵んでくださっているのかもしれない。本当に天の恵みは偉大であり、神秘であり、感謝である。私は、毎日、天の恵みにあまえて暮らさせていただいているのである。

*追伸
この文章を書いた後ふと思ったのだが、日本語では「恵まれていない人」と言う表現は普段あまり使われていない。したがって、人それぞれ天の恵みは、人それぞれにいただいているのであり、そのことに気づかない人が多いような気がします。
ちなみに私は自他共に認めていますが恵まれています。そして、そのことに大変感謝しています。また、私自身恵まれていることが、私の中でわかっていることに一番感謝しています。というのは、自分自身が幸せであると言うことに気づくことが、幸せになる第一歩だと私は信じているからです。
(2006.12.19)


七福神
大阪天満宮様の星合茶屋の軒先でさせていただいているお店には、私の母がいる。
母は高校卒業後、祖父が創業したかまぼこ屋に勤め、
60歳で退職し老後をおくっていたのだが、不肖の息子の私のせいでうどん屋のおばちゃんに復帰した。もちろんただ働きで、うどん屋をやってくれている。申し訳ない。そして、派手なすべらんうどんの赤っぽいエプロンと黄緑の三角巾を頭にし、にぎにぎしく店番をし、カンバンおばちゃんである。そして最近お客さんに、七福神のどれかの神さんに似ていると言われ、憮然としている。普通は神様に似ていると言われたらうれしいものであるが、七福神の神様たちは一人を除いてすべて男の神様だと言うのである。私はこれでも女であると言うのである。これが真剣な顔で言うから実におもしろい。
ただ、確かに母の耳は福耳でとてもいい耳である。
おおよそ不幸な星の元には生まれていない。幸せそのものである。私のせいで負担はあるものの・・・。へんな欲がないのである。いつも、今の生活の中に幸せを見つけている。まっすぐな人とはこう言う人のことを言うのであろう。これは自分の母ではあるが、私も鏡にするべきである。彼女は、無我夢中に生きている、生かされている。迷いがない、濁りがない、無理がない。普通である。彼女の信念は、どんなに貧しくても、どんなに苦しくても、どんなに金持ちでも、どんなに豊かでも、いつも同じ生活レベルを保ち、いつも同じ目線で生活するよう心がけることである。そして、いつも全力投球。したがって悔いがない。
そんな母、七福神?に感謝。
(2006.12.19)


暗中模索
天神さんのうどん屋を不定期でやり始めて約2年、毎日営業になって1年が過ぎた。
その間やっていただく方が何人か変わったがやっと落ち着き、これからである。
この2年やらせていただいて感じたことは、1杯のうどんを食べていただくのにいかに大変かと言うことである。
もともと私の考えは、うどん屋をやることではなく、私が提案した冷凍うどんと乾麺を、誰かに製造販売してもらおうと考えていた。私のような素人がうどんに手を出す気はまったくなかった。なぜなら、商売や経営と言うものがどれだけ大変か、周りの経営者の方を見ていて知っていた。また、麺業界がどれだけ大変か、やる前から調べて知っている。おまけに、私は視覚障害者だ。本来、誰も相手にしてくださらない。
それならなぜこんな無謀なことを行うのか・・・。

このうどんを考えた時、誰に話しても話を聞いてくださるだけで、やってくださらない。ヘタしたら話さえ聞いてくださらない。みな組織で仕事をしているので話にならない。あたりまえのことである。金儲けにならない商売はしない。あたりまえ。至極簡単なことである。
いつかはスポンサーがつく、代わりに広めていただける方が私のまわりに現れると信じて、それまでは自分でと今までやってきた。気がついてみたら赤字の山である。今では、マヒしたのか赤字に慣れ、赤字と戦うエネルギーも枯れ果てた。赤字と友達である。友達の友達は友達と言う言葉があるが、赤字が友達と言うことは、黒字も友達と言うことだと言い聞かせる。
思うに、赤字と友達でも何とか続けていくことばかり考え、心が萎縮している。もっとダイナミックに大胆にやりたいと意識がそう思うのだが、無意識がそれを否定する。困ったものだ。天神さんに商売がすべりませんようにと祈る毎日である。天神さんに「ちょっと違うやろう」と言われそうではあるが・・・。まあいいか。学問の神様は商売の神様に変身するのか、できるのか聞いてみようっと。我にかえれば、境内でうどん屋をさせていただけるだけでもありがたいことなのに・・・。バーか。
暗中模索という言葉は、今のこのような状態のことを言うのか。

3
年前にも、うどんがなかなかうまくいかず、パソコンの練習のつもりで『ケイタイマン』という題で作家気分で本を書いたことがあるが、実際、自分自身の気持ちを言葉や文章にするのは我々素人にはとても難しい。それでもその時々の気持ちを書きとめておくと、1年後2年後に読み返してみるととてもおもしろいものである。自分で書いた文章が自分を励ましてくれることさえある。
今まさにそのことを思い、自分の心の中を赤裸々に語りたいと自分に言い聞かせる。
(2006.12.16)


いいわけ
11
月の半ばぐらいから、わがすべらんうどん屋も軒先営業で寒さが厳しい。
そのためかお客さんの数も少ない。

そして私と母の口ぐせは、寒いから仕方ないなあ、雨がふるから仕方ないなあの連発である。屋外ではそのことが立派ないいわけとして通用すると思っていた。
しかし、そうではなかった。
12
月のある日、あるラーメン屋さんにラーメンを食べに行った。
友達が言うことに、そこのラーメン屋さんは朝5時から満員で店外にたくさんの人が並ぶと言う。この寒い時期に朝5時から並ぶと言うことは大変なことである。寒さがいいわけにならないのである。言い訳無用。
なぜそのラーメン屋さんがはやるか観察しよう。
(2006.12.14)


写真
私には写真家の友達がいる。
というよりいつも私の世話をし、いろいろなアドバイスをしてくださる方がいる。その方と先日飲みに行ったときに、アッと思ったことがあった。
同じものを同じ時間に同じところから写して、他のプロの写真家が写した写真と、自分が写した写真と見分けがつきますかと質問した。「そりゃあ、わかるよ」と間髪いれずにかえってきた。どうしてと聞くと、写す前に写すものをどう写すか、すでに頭の中で描いているので、他の人が写す写真との違いはすぐわかると言うのである。写す前に写す写真が頭の中で描かれていると言うのである。私は、写真とはその場をそのまま写すものと考えていた。そうではない。はじめから切り落とすところは決めているのである。やはりプロは、何事も違う。

便利がいいやろうと思ってすべらんうどんを考えたが、プロのうどん屋は、もう一味違う答えが返ってくるやろう。
さあ困った、もう少し考えてすべらんうどん屋をせんとあかん。
(2006.12.13)


父の日記
母が父の部屋を整理していると、今年1月に亡くなった父の書きさしの日記が出てきた。
そこには私のことが切々と書かれていた。それを読んで涙が出て眠れなかったそうだ。
翌日私にその内容を読んでくれた。

かいつまんで言うと、盲人の息子つまり私を残して死ねない、できるだけ長生きし世話をしなければならない。私を残して死んだら、私はどうやって生きていくのだろうか、とても心配だ。盲人の子を持つ親の気持ちの置き所がない。そんな親たちの気持ちをわかってほしい、と言う内容だった。
私は出社前だったので、それを聞き聞きあわただしく食事をし出社した。

帰宅後、母にもう一度その内容を読んでと言うと、母は、あっさりその書きさしの日記を朝一番に捨てたと言うのである。私が拾ってきてと言うと、もうだめだ、持って行かれてしまったと言う。私は少し黙った。
母は、少し間をおいてこう切り出した。
父は、陰気くさい。そんなこと書くぐらいだったら、どのようにしたらいいか考え、行動を起こすべきだったと言う。まして、長生きしないといけないと言いながら、死んでこの世にいない。お墓で我々の会話を聞いて見守ってもらえばいい。どのようにして生きていくか考え、行動を起こそうと言い放った。母と二人でカンパイをし、ぐい飲みの酒をぐいっと飲み干し、二人笑みを浮かべた。

(2006.12.13)


お金の話
NHKの番組でワーキングプアーと言うドキュメントを見た後、ケーブルテレビを見ると、ロバート・キヨサキ氏のファイナンシャルインテリジェンスのコマーシャルがされていた。どちらもお金の話である。
今の日本は、お金と命と老後と環境がテーマである。命と老後と環境は、ある程度お金で解決つくが、最後の決めてはお金では解決しないらしい。そして、お金儲けの話や、そのことについての的確なアドバイスをしてくれる書籍やビデオなどのノウハウものは飛ぶように売れる。片一方でボランティアと言う言葉が横行する。アメリカで起きたことは日本でも必ず起きる。アメリカを見ていれば次の日本はわかる。
私にはお金儲けはわからないが、現在のところ日本の未来はアメリカの現在だ。アメリカより大国が存在すれば、その大国が日本の未来になる。物まね日本はたえず上昇志向である。

わが「すべらんうどん屋」も上昇志向といきたいが、きつねうどんのだしのようにあったかい心をいつも持ちたいものである。
(2006.12.13)


ワーキングプアー
昨日、NHKの番組でワーキングプアーと言う題でドキュメントがあった。
働いても働いても豊かにならないと言うのである。このことが社会問題になっていると言うのである。確かにそうかもしれない。急激な社会構造の変化により、現代は20年前とはまったく違う。当然仕事のありかたが違う。また、老後の生活が社会の変化によりお金が以前より必要になってきている。

番組では、6組のケースが放映されていた。
一つ目は、離婚して子育てをしなければならない30代の女性。
二つ目は、20代の女性で地方に住み、病弱の父の面倒を妹と見ている女性。
三つ目と四つ目は、繊維業界で中国など安い労働力により町工場の経営が立ち行かなくなったケース。
五つ目と六つ目は、老夫婦の場合で、国民年金が入るケースと入らないケース。入るケースの場合でも、特別擁護老人ホームへ奥さんを入居させているケース。もうひとつは無年金で、空き缶拾いをして生計を立てているケース。

どのケースもまじめに生きているのに、どうして豊にならないの? と言う解説者の話だった。そして、学識経験者や専門家の方たちがそれぞれの立場からコメントしていた。どの方たちもおおよそ社会が悪いと述べていたような気がする。
私はこのコメントにどうもすっきりしなかった。
もちろんテレビで述べて差し支えないようにコメントしたのかもしれないが、原因があるから結果があると言う宇宙の大原則を忘れているような気がしてならなかった。病気でも何でも原因不明と言われることがあるが、実際ほとんどこの世で起きている事柄すべて科学で解明できない。それを原因不明と言っているが、実際原因があるから結果があるのである。そのことをふまえていくと、紹介されたケースすべてに、ワーキングプアーになる原因がある。NHKでは、このようなワーキングプアーになる社会秩序を変える必要があると述べているのであろう・・・。

正義感に満ちた、人間社会のありかたを述べた番組だった。
しかし、お金がなくNHKの受信料が払えないと言えば、どうなるだろう? すんなりひいてくれるのか? そうではないだろう。他のものを節約してとか、テレビ、ラジオを見るな聞くなと言う意見がでてこないだろうか?
結局のところすべての人にいろいろな事情はあるが、人間社会で生きていくためには、人間が決めた社会規範を守っていく以外に生きていけない。ただで、お金は恵んでもらえない。障害をもっていていろいろな方にお世話になったり、ボランティアの方にお世話になるが、お金だけは自分で稼ぐか、身内に融通してもらうか、国に年金や生活保護をお願いするかしかない。

そうなってくると自分で稼ぐ以外は必然的に大金は望めない。大金は自分自身に期待するしかないのである。社会に求めても無理な話である。ただ、人間の本当の幸せはお金では買えないものであり、今現在生かさせてもらっている中に幸せを見出すことが、それぞれの人たちの原因究明の糸口があるような気がする。人それぞれ幸せは違うのである。
そして、わが「すべらんうどん屋」に300円払って、儲からんやろうと言いながらうどんを食べてくださるお客さんがいる。今の寒い季節に軒先のうどん屋に来てくださる。あったかいものがほしいのか、名物のカンバンおばちゃんを訪れて。
ありがたい。感謝。
(2006.12.11)


まずい
昨日、すべらんうどんの出汁がまずいと言われた。ショックである。
確かに今まででも、今日のはうすいとか、濃いとか、おいしくなくなったとか、いろいろお客様からお言葉をいただき、そのつど入念にチェックしている。しかし、今回は、初めてのお客様で、他のお店の出汁よりまずいと言うのである。半分残し、文句を言って帰られた。味には人それぞれ好みはあるものの、これだけはっきり言って帰られるとお手上げである。
今まですべらんうどんの出汁は「すべらん味」でおいしいと自負していたが、頭を少しひやして考えよう。

皆さんにも問うてみたい。
すべらんうどんの出汁はすべらん味です。一度食べてみてください。
(2006.12.10)


職場
最近は、福祉の充実で障害者でも仕事場が提供していただける職場が増えている。
ようは仕事がある。ありがたいことである。
先日、私の友人で少し躁鬱がきつくなっていると思うB君に会って話を聞いた。
彼は自他共に認める負けず嫌いである。話を聞いているうち職場の環境が気になってつっこんで聞いてみると、一部の仕事がパソコンを使ってする仕事なのだが、音声のソフトが、規則と現在のコンピューターソフトの環境で使えないと言う。彼のためだけに環境を変えられないというのである。当たり前のことである。

彼は視覚障害者である。私よりは少しは見えるそうだが、視覚障害者に音声ソフトなしでパソコンを使えと言うことは、仕事をやめろ、放棄しろと言うようなものである。もっとも、一般の職員、社員と同じように働かなければならないのは事実であるが、彼はほんのごくわずかある視力がなくなる恐怖心と戦い、失職する恐怖や将来に対する不安と戦っている。その中で仕事をこなし、家庭を守っている。暖かい家庭だけが心の灯火であり白杖だ。偉い。私にはまだ甘えがあるのか、そんな職場であれば、とっくに投げ出しているであろう。
障害と言うことに対して、再認識させられる一日だった。
本当に強くなるためには、障害と言う大きな山を乗り越えて当たり前なのだ。そのことは、よくわかっているつもりなのだが、結局のところ頭の中だけでわかっているだけで、本当のところ何もわかっていなかった。社会人として生きていくためには障害は関係なく、たとえば視覚障害者なら目よりももっとよく見えるスーパーアイが必要か? 仕事や社会生活では、ゴルフのようなハンディーキャップはいただけない。見えないことが言い訳にならない現実がある。見えるようになりたい。
(2006.12.10)


「いじめ」について
最近いじめの問題が社会問題となりクローズアップされています。
そして、マスコミの皆様がいろいろな論議をかわし、政治家の方たちや教育者の方たちの中で解決にむかって、いろいろな提案がなされています。
私、道信のひとりごと。

今年の話題・・・核問題、拉致被害者、いじめ、飲酒運転、汚職、虐待、自殺など。誰もが宗教、価値観関係なくいいことではないと思っていることが問題視されています。
これは、どういうことでしょう? 私は、こう考えます。
数年前から勝ち組負け組みと言う言葉がはやり、当然大半の人たちが勝ち組になりたいと言う意識、無意識になりつつあります。そうすると、勝つためには何をするか、勝ち組にいるためにはどうあるべきかなどと言うことを考えます。当然そうなってくると、悪いことをしてでも勝ち組になりたいと言う人も現れます。そういうことが引きがねとなっていろいろな問題が起きてきます。そうすればどのようにしたらこれらの問題が解決できるのか? 
基本的にこれらの問題がゼロになることはありません。

なぜなら人間は動物であり、本能で自分自身が生き残る、自分自身の子孫繁栄のために生き残ると言う本能が働き、人間がもつ他の動物にない理性を本能は超えるからです。しかし、人間は本能だけで生きると自滅してしまうと言うことを知っているので理性で本能をカバーし、人間どうしが社会秩序を作り、協力して生き残り生活しています。そのことを理解しない限り、このような問題は減ることがないように思います。なぜなら現在私も含めた戦後生まれの子供たちの多くは、先人たちが社会秩序をつくってくださったおかげで、今の平和な日本、豊な日本があることを知らないし、わかろうともしない。別に他国と比較する必要はありませんが、たとえば「いじめ」の問題では、戦争で明日をも知れない命であったり、たえず強盗が横行したり、家族が食べるもの、着るものがなかったり、住む家がなかったりすれば、人をいじめるどころかお互いに助け合わないと生きていけないことがわかります。そう言ったことを理解し実感しないかぎり、いじめる側もいじめられる側もなくならない。
当然いじめる側に大きな問題はありますが、今の日本がかかえる大きな政治問題はあるものの、地球上で日本ぐらい社会秩序が安定し平和である国は少ないと言うことをみんなに知らしめるべきです。日本の国家が、現在赤字が大きく経済が大変でそのことを解消し、より豊で平和な国を目指すことは大切ですが、今現状の「美しい日本」を知ってもらうことも大切です。現状の平和な国日本を知らない人が多いから、いじめのような問題が多発するような気がします。いじめをなくす取り組みは大切ですが、いじめを作る環境をなくすことのほうが大切なような気がします。すなわち、助け合いの心を育てることを教育することが、よりよい社会秩序を生み出す気がします。

確かに勝ち組ということは大切ですが、一人勝ちでは社会にとけこめないことも教えるべきです。ようは社会に貢献し、それが結果として勝ち組になると言うことを教育してほしいのです。社会に貢献すると言うことは、人をいじめていては果たせないと言うことが親や子供たちの心に伝われば、必然的にいじめや虐待などと言った社会問題は、減っていくような気がします。また、教育のあり方も変化する気がします。
すべらんうどんとは関係ないですが、あったかいものがほしいので書かせていただきました。
(2006.12.3)


お父さん、お母さん、受験生のみなさんへ
これから受験シーズンをむかえ、心の準備、体調の管理が大切なときです。
そうしたときに、食事と言うのがその中でも大切になってきます。
落ちこぼれだった私が申しあげるのもなんですが、自分の力を最大限いかすためには普段からの心がけが大切です。心がけと言うのは、日常生活ですべての人が毎日おこなっている行為から始まります。そして、日常生活で毎日行っている行為と言うのは、食べること、トイレに行くこと、眠ることです。そのことをまずは、一番大切にすることです。その中で眠ることとトイレに行くことは一人で行います。
ところが、食事は普通一人で行うことは少なく、受験生や未成年者は両親など家族と行います。したがって、その場が人格形成や幸福な人生をおくれるかどうかに大きな影響を与えます。そして、食事を好き嫌いなくバランスよくとり快便をおこない、その日にあった出来事を素直にうけとめ気持ちよい眠りにつく。そのことをたんたんと続けることが大切です。普通のことを普通に行うことが大切です。
そして、その中で自分自身の受験校は、自分の実力と自分がどんな人生を進むかで決めます。したがって、自分が受験する学校には、よく似た実力の持ち主が集まり、同じような希望をもつ若者が集まります。ようは、どんぐりの背比べだと言うことです。そして、希望校に合格するためには勉強して当たり前、努力して当たり前、健康管理して当たり前、心がけを大切にして当たり前なのです。そして、最後の合格を決める分かれ目は運です。
ところが、運と言うのはわからないもので、見えませんし、どこにあるのかわかりません。また、運は、四六時中はつかめませんし、実際運を現在つかんでいてもわかりません。そこで、いつも、幸せに暮らすためには、もしくは四六時中運をつかむためには、現在のおかれている自分の中に幸せを見つけるのが、幸せに暮らせるコツであり、運をつかむコツだと思います。ようは、今現在幸せであることに気づく、運がいいことに気づく。この世に人間として存在していることは紛れもない事実であり、宇宙観から言えばそのことだけでも奇跡です。そのことに気づく。まず、人間としてこの世に生まれたことに感謝することから始まり、受験できることに感謝する。そして、合格を夢見てプラス思考で生活してください。受験できる環境にある自分自身の幸せを実感したら合格は近いでしょう。プラス思考は、成功の確率を高めます。
私の、ひとりごとを聞いてくださった方に幸せが訪れますようにお祈りします。
それじゃあまた。

(2006.12.2)