hitorigoto

20075

肉みそうどん
5月も末になってくると、かなり暑い。
そこで我がすべらんうどん屋も夏メニュー。
母と叔母といとこで運営するうどん屋は呼吸がピッタリ。
新しいメニューの話になると皆張り切る。
そこでいとこの雅代。肉みそうどんの提案。
料理自慢の叔母が改良をくり返し、いいものができた。
びっくり、きつねうどんに並んでスタートわずか3日でシェアートップ。
売り切れゴメン。
これはすべらんうどん屋のカンバンメニューになるのでは・・・?
思いがけないスター誕生。
いとこと叔母に感謝。
(2007.5.25)


評価
「十人十色」と言う題で書きながら頭を過ぎったことがある。
それは「評価」と言う言葉である。
私は盲人になった時、初めて知り合った盲人3人すべてが公務員だった。とは言っても発病から15年以上過ぎていたが・・・。
彼らは、活発で行動的。おおよそ障害を持っているからと言って悩みなど一切ない。もちろんすべての面で私より優れている。当然ながら私よりつき合いも広く、障害者の知り合いも多い。世間も知っている。
ただ、私より優れている彼らは、スポーツや仕事で自分たちより劣る人たちが高い評価を受けることが許されないみたいで、ある一定の基準まできたら、どんな組織に対しても自分が正しく評価されないことに不満を感じているみたいで、不満を聞くことが多い。そのうちの一人はスポーツ万能で何をやらしても一番。もちろんパラリンピックに出場できる実力があった。だけど正しく評価していただけない。そして、ついにその組織から脱退してしまった。
私にはどの評価が正しいか分からないが、評価が正しくされていないからと言って、執拗に抗議したり、自分の所属する組織を批難したり、そのことで脱退するのはどうも性分にあわない。また、続く後輩たちのために抗議してその組織を変化させようとも思わない。変化は自分がしないと、他人が自分が変化もしないのに、先に変化するはずない。そう言う考え方であるから、私はそんな評価に対する不満はあまり起こらない。人の評価ぐらいいいかげんなものはないし、いいように評価してもらってもその時だけで、ただそれだけであると思っている。
私はすべてのことにおいて、能力不足や努力不足などで、失敗だらけで仕事などありとあらゆることで評価が低い。そのせいで最近は、人に低い評価しかしていただけないことに慣れっこになっているし、腹もたたない。人に負けることに悔しいとは思わない。また、その評価はあたらずとも遠からずと思う。ただ自分自身で決めたことや自分で決めた道を進むだけと思っている。

人間社会では人間がすべての規範を決め、人間がその規範を破る。したがって汚職、裏口、談合、えこ贔屓、根回しなどマスコミにたたかれても違法行為を行ってでも、できレースは当たり前のことである。誰しもわが身がかわいいものである。ただ、人間あまい汁を吸うと歯止めがかからず行き過ぎて泥沼に入る。そこで評価やものさしがくるうのである。もちろん、くるわない評価やものさしもあるが、すべての人が妥当と思う評価はきわめて少ない。
そこで我々が一番大切にしなければならないことは、人からの評価や成績などのでた結果に惑わされることなく、人から指摘された中で反省するところは反省し、自分の決めたゴール目指し淡々と努力することが大切に思える。結果として天狗になることなく、人が評価する以上のものが得られるかもしれない。
百戦全敗の私が言うのもおかしいが、最後に勝つ一勝が、今までの全敗を一掃してくれるものになればいいのである。人様からの評価を気にするより、その時々で悔いのない行動を行いたい。世間の人は評価の高いものだけにスポットをあて注目し特権を与えるが、神様は底辺におられ、評価の低いものでも心がけさえよければ救ってくださるのである。
普通に喜んで暮らすのが、神様に接することができる近道なのだ。
(2007.5.23)


十人十色
5
月に入って緑がさわやかな季節になった。
毎日が淡々と過ぎ、なんとなく充実している。
大阪天満宮様と正式の契約も結び、心がひきしまる。
そして契約にあたって、ひとつの条件が提示された。

契約後、近いうちにうどん双樹を個人から法人にすること。すなわち個人商店から株式会社にすること。このことがひとつの条件になった。売上も少なく赤字で身分不相応であると思うが、神様からの提案と受けとめ、法人登録することに決め手続きに入った。本当に心がひきしまった。
うどん双樹は、いよいよ私の手から離れて一人歩きしだすのであろう。いや名前が決まった3年前から一人歩きしているのだが、いよいよ本当に私の手から完全に離れて一人歩きするのだろう。「岡 道信のうどん双樹」から「うどん双樹の岡 道信」になる。現時点では何一つ将来のことは考えていないが、会社勤めのサラリーマンである以上、これ以上うどん双樹に肩入れできない。これから法人として運営していくのに、誰に管理していただくか、誰に営業していただくか、どう採算をとっていくか、思案のしどころである。個人の場合、赤字を出しても自分のふところが続く限りなんとかなるが、法人になれば2期以上赤字を出すと銀行に相手にしてもらえない。法人に個人のお金ばかり入れていたのでは将来がない。けじめもつかない。今回のことは、神様が神様に仕える人の口を借りて、法人にするようにとおっしゃったと私はとらまえる。「神様の意向」。
そんなことでバタバタしている日常生活の中で、最近躁鬱になっている方と交わるケースが多い。と言っても本人たちはそうは思っていないだろうが・・・私の目にはそう映る。
と言うのは、その方たち皆、自分は大変、人は自分の苦しみをわかってくれないと言うし、思っているのである。かつての私もそうであった。私の右手右足の不自由さわかってくれる? 私の目の見えない大変さわかってくれる? と言ったし、思った。
だけど気がついた。
すべての人に思いや悩みは存在する。生きている間中それは当たり前。自分のことを理解してもらおうと思っても限界があるし、身内や他人の苦しみを理解しようとしても限界がある。彼らの悩みは私のものとは違うが、結局は悩みである。たとえばドメスティックバイオレンス、モラルハラスメント、離婚問題、子育て、仕事、病気、人間関係、金銭問題などなど・・・私と違う悩み。

先日、植木等さんがお亡くなりになったが、彼のスーダラ節の中に
 ひとつ山こしゃほんだらかほいほい
 ふたつ山こしゃほんだらかほいほい
 越しても越してもほんだらかほいほい
といったのがあった。
結局のところ生きている限り、ひとつ悩みが消えても、またひとつと、ずーと続くのである。それであれば喜びも同じことで、小さな幸せを毎日見つけて暮らせば毎日続く、死ぬまでずーと幸せと思うようになった。
例えば、朝起きて今日も生きているぞ幸せだと思えば、あと何があっても、夜寝る時今日一日生きれました幸せ、と思えばそのくり返しを毎日続ければ、悩んでいる人との差はあっという間につくのである。充実感が違う。私のこうした考え方も多くの考え方のひとつにすぎないが、自分自身に十人十色と言い聞かす。
ただ、私は不幸な人生よりは幸せな人生をおくりたいので、朝起きて今日も生きてる幸せありがとう、寝る時に今日も一日過せましたありがとう、と言える毎日の何気ない幸せを大切にしたい。
ありがとう。感謝。
(2007.5.23)


幼いころの思い出
先日、盲人の夫婦が駅のホームから転落し大ケガをおった。
私はそのことをニュースで聞いて身がすくんだ。
そして、幼いころのある出来事を思い出した。
小学校の低学年のころ、私の友達でお父さんが中途失明した子がいた。そして、その子のお父さんが一人で白杖をついて信号をわたり、バスに乗る姿をよく見かけた。私はいつも遠くから信号を渡り終えるのを見届けた。そばに行って手をさしのべることは気恥ずかしくできなかった。自分が中途失明した時、そのころのことを思い出し、人に頼ること、あまえることはできないと思った。
と言うのも、自分が幼いころ恥ずかしくて、ただ見てるだけの行動しかできなかった。自分が不自由になったからと言って、都合のいいことは思えないと思った。だから、路駐の自転車や出すぎたカンバンやゴミ箱に文句は言えないと思った。
ところが、大事故となると話は別だ。本人たちはもちろん、皆に迷惑がかかる。
ひとつは本人。痛いし、仕事はできなくなるし、将来不安。金銭面でも大変。電鉄会社。事故でダイヤは狂い、一般人に迷惑がかかる。経済的に会社に損害。電車の安全性が問われ、その場の担当者は大変。マスコミに非難を受ける。役所。事故を受けた人は生活できなくなり、生活保護など費用負担が増える可能性がでてくる。まだまだいろいろな問題が起きる。障害を持つと言うことは思っている以上に大変なのである。

本人が大変なのは当たり前であるが、周りのものだって大変。
そして、周りの者だっていつ障害を持つかわからない、他人ごとではありえない。むかしであれば障害者はほっておかれただろう。だが、現代はありがたく一個の人間として扱っていただける。人権が尊重され、誰もが平等に生きる権利を認められ、快適な人生を送ることを社会は目指している。議員さんの選挙公約の中にも、弱者が快適な生活ができる社会を目指してと謳う。

しかし、こんな事故が起きると考えさせられる。障害を持った人があちこちウロウロしていいのだろうかと。たぶん確率的には障害者も健常者もそれほど変わらないと思うのだが。事故が起きる原因を述べやすいだけではないのかと思う。
私がここで言いたいのは、障害あるなしに関わらず二十歳を過ぎればすべて自己責任であるので、楽しいことも苦しいこともすべて自分の責任であると言うこと。人や物のせいにしてはだめだと言うことである。原因があるから結果がある。障害を持っているのだからその障害を補助する何かを身につける、できないことを人様に頭を下げてお願いする。これは健常者も同じだ、何もかも自分ひとりでできる人はいない。普段の生活の中で、お金を払って自分ができないことをサービスとして受け、お金で解決できないことは頭を下げて人にお願いする。もちろん、お金を払ったからと言って、お金は代償だけで、人様に物事をお願いすればお礼を言うのは当たり前である。これが社会秩序の原理原則だ。人間社会は最終的には助け合い。ところがずるい人は、できることでもしないから問題なのである。
基本は、あまえず、頼らず、あてにせず、ただ、生活で必ず必要なことで自分で本当にできないことだけは、ひとにあまえて、頼って、あてにしてもいい時があるのでは・・・。そしてその時にはありがとうの心をいつも持つ。それが人生円満にいくコツでは・・・と私は信じたい。
ただ、当たり前のことではあるが、自分がひどい目にあわないとわからない。自分が何もできない人間とわかって「ありがとう」の重みがわかる。どんな細かいことでも自分でできないときに、人の手助けのありがたさがわかる。
ありがとうと言う言葉は、本当に大切なのである。
人の心と人の心をつなぐ一番大切な言葉である。
ありがとう、感謝。
(2007.5.4)