hitorigoto

20206

直観
6月もあと数日で終わる。
私は今月何をしていたのだろうと考えてみた。
ちゃんと充実した日々を過ごせたのか。今月の目標は達成できたのか。何か自分の中で改善できたことはあるのか。と、もう一人の自分にたずねてみる。そうすると今までにない答えが返ってきた。6月は充実した日々を過ごせてはいない。目標も達成できてはいない。ここまではいつも通り。そしていつも反省ばかり。後悔ばかり。そしてそこで終わり、成長がない。
ところが今月は今までにない自分の中で変化があった。
どんな変化。それは「1日を本当に大切にすること」である。1日を大切に思うことである。
従来の私は月半ばを超えその月の自分の目標が思い通りうまくできていなかったら、もうあきらめ気味でと言うよりあきらめていた。来月回しにして知らず知らずのうちに1年を過ごし、後悔ばかりが先に立った。
ところがである。
この1か月に関して目標通りに行っていないにもかかわらず、あきらめることなく、まだ時間はある日にちはあると自分の立てた目標に向かって突き進める。この変化は何なのだろうか。締め切りまでまだ日にちはある、まだ時間はある、まだ何分かある、まだ数秒ある。その間にまだ何かできることはある。まだ何かやることはある。まだ何かやらなければならないことはあるともう一人の自分が叫ぶ。
この変化は何なのか。ちょっと考えてみた。それはある本の大きな影響。
その本には生きていくうえで、ものごとを決めるうえで、「直観が大きな存在である、大切な存在である。」と言う意味のことが遠まわしに書いてあった。そして私は「直観」と言うことについて、この数か月いや半年近くいや半年以上考え続けた。直観ってなんだろう。今までは直観ってなんとなく自分がこれだと思う感覚。そして、直観は結構当たる。だから物事を決めるとき、軽い気持ちで直観で決めていた。結果うまく行く時と行かない時、うまく行かない時は直観だから仕方がないかとあきらめていた。直観は誰にでもある感覚で、当たらなくても正直軽く考えていた。
だが違った。直観は、99%いや100%正しい。
直観が当たらない時は、それを上手に引き出せていないだけ、素直に受け入れていないだけ、正しく扱っていないだけ。直感からいただいた答えを聞き、それを知って正しく行動できていないだけとわかった。「直観」はとても深い。揺るがないものからやってくる。
なぜ直観が働くのか。
自分の思考が整列している時、平常な時、自然な時、自然と調和している時、邪心がない時、自分の気持ちがぶれていない時など、自然の摂理に従い定まっている時ではと確信した。そして直観が常に強烈に働いてもらうためには、自分が常に自然と調和し、自分の行きたい方向が気持の上で定まっていないとダメである。もちろん結果行動もその方向に向かっていないとダメである。そうなると11秒でも大切になってくる。直観は瞬間にも働く。瞬間で物事が決まることが100%。瞬間で物事が決まっていないように見えるものでも実は決まっている。瞬間の連続が物事を大きく進化させる。瞬間それが見えていないから分からないだけである。そんな理由から私は最後の一瞬まで物事を見切らないと決めた。
「直観」に感謝。

*追伸
受験生も瞬間ぎりぎりまで集中することで、たまたまその集中しているときに学んだことが試験に出ることが多いのではないだろうか。
(2020.6.27)



かわりもの
6
月も後半に入った。
そんな中、私の生活は相変わらず普通の人のリズムではない。
夜、はやめに寝て真夜中に起きる生活。もしくは夕方に寝て夜起きる生活。眠くなったら昼30分ぐらい昼寝とわけがわからない。ただ、それでリズムが安定し、体調がよく気分がよく、自分の本当にやりたいことができる。深酒をするわけでもなく、人との交流を断つわけでもなく、生活は荒れていない。自分の仕事もできるし、むしろ今までより充実している。
そして先月気がついた。私は「かわりもの」である。今まで私自身は、個性は強いと思ってはいたが、「かわりもの」とは思っていなかった。そしてそのことに気がついて、益々生活が充実しだした。これで突き進む。よかった。
「かわりもの」の自分に感謝。
(2020.6.20)



右手
6
月も半分を過ぎようとしている。
1
18日に母が亡くなった翌日、通夜が数日遅れたため、寂しさを紛らわすため会社の人と寿司屋に行き、席から立つ際バランスを崩し背中の骨を少しだけ折った。亡くなった母をほったらかしで、不謹慎にも飲みに寿司屋に行ったので母が怒ったのかもしれない。入院は避け、なんとか母の葬儀はつとめれたが
正直3週間ほどとても痛かった。そして背中の治療に整骨院に今も通っているのだが、背中はなおったので、少し良くなりかけている右手の麻痺の治療を行ってもらっている。ところが意外にもそれがよく効き、目に見えてよくなっているのがわかる。母はそのこともわかってその整骨院に導いてくれたのか。今まで通っている鍼灸マッサージの奥さんがその医院を紹介してくれたのだが、不思議である。そして今、どちらの医院にも毎週通っている。
先週書いた「すごろく」ではないが、どのように展開するかわからない。背中の骨を折っていなかったら、右手がこれほど改善していない。もっとも骨を折るのはもうこりごりである。人間万事塞翁が馬で一喜一憂することなく淡々と暮らしたい。
日々の暮らしに感謝。
父と母に感謝。
(2020.6.13)



すごろく
6
月に入り新型コロナも少しおさまり、世間が少し動き出した。ありがたい。
私の生活のリズムも安定しだしてきた。ただし、夜と昼が半分さかさまになったままだが。
夜は午後7時か8時から寝て、午後11時から午前1時に目が覚め、それからずーっと朝まで起きて、昼30分程度昼寝をする生活。よくよく考えてみると、中央市場で働いている方や漁師さんの生活である。そう考えると問題ない。生活が荒れているわけでもない。深酒をするわけでもない。当分この生活で行こうと思う。無理に普通の生活に戻す必要もない。
そして、少し普通と違う生活のリズムに、ふと「すごろくゲーム」を思い出す。
一緒にスタートして、一回休み、スタートからやり直し、近道など色々なハプニング、障害があり、いよいよゴールで上がりと言う時に、サイコロの目の数字がゴールにぴったり合わず何度もやり直し、遅れてきた人にぬかれたり、先に行っていた人をぬいてゴールしたりと、偶然のサイコロの目で勝ち負けが変わる。
人生も、サイコロの目のようにすごろくゲームのように、努力や工夫だけで予定どおりに思いどおりに行かない。何事があろうとくさることなく、常に変わらない自分自身の心がけで常に努力工夫し、自分の思いを達成できる自分の順番が来るまで、その時期を待つのである。努力、工夫、そして偶然の幸運。サイコロをふって毎日生活していると思えばいい。
すごろくゲームに感謝。
天に感謝。
(2020.6.6)